しゅら

1986年生まれ 
茨城県鹿嶋市出身 東京都在住

自身の結婚式で家族との在り方がガラリと変わり、同時に自分の人生も大変容を遂げました。

変容のきっかけとなったのは、寄り添ってあるがままに話をきいてもらったことでした。

この体験から、自身も人の話をあるがままにきき、変容をサポートしたいとカウンセリングを学び

現在、カウンセリングや大切な人に手紙を書くセッションを行っています。

幼少期

小学校2年生の時に訪れた自分で決める経験。

田舎の町で長男として誕生しました。実家は兼業ですが農家をしており、
後継ぎの男の子が生まれたと言って祖父母の喜び方はすごかったと後に聞きました。

母方の祖父母にしても初孫で、両家の祖父母からとても可愛がられて育ちました。
祖父母には何をやっても怒られた記憶がありません。
その反面、母親は祖父母が甘やかしすぎていると感じ、
自分はあえて厳しく育てようと心に誓ったとのことでした。

そんな幼少期を過ごす中で、小学2年生の夏休みに事件が起こります。


祖母が私に新しい洋服を買ってきたのですが、相談も無かったことに母が激怒し、
遂に母親が実家を出ていくことになりました。

もともと、嫁姑の仲が上手くいっておらず、父親は仕事に忙しくそれをフォローできていなかったこともあったのですが、当時の私はそんなことは分かるはずもなく、

私がきっかけになったのがかなりショックでした。
私が母親についていくのか、そのまま実家に残るのか、かなり揉めた記憶があります。

私はその話し合いの際に母親から「どっちの家で生活をする?」と聞かれました。そして自分の意志で母親と生活することを選択しました。

今振り返っても人生でかなりキツイ決断でしたが、そんな幼い自分の意志を尊重し、

自分で決めるということをさせてくれたからこそ、後の生活で苦しかったり

、母に厳しく怒られたりした時も、乗り越えられたんだと思っています。

中学生~大学生

陸上競技に出会い、掴んだ自信と挫折。

実家を出て母親と妹と3人暮らしがスタートし、
少しして無事父親も合流して家族4人の生活がはじまりました。

両親の共働きは変わらずどちらも忙しい為、
家庭内がギスギスした雰囲気である事が多く、
家事の手伝いを忘れてしまいよく怒られていました。
テストで良い点をとっても褒められず、

悪かった時はさらに怒られる生活は
あまり居心地の良いものではありませんでした。

高校に進学すると、友人の誘いで陸上競技に入部することになり、
走り高跳びと110mHで関東大会に出場する事ができました。

今まで何かに打ち込んで結果を出した経験がなかったので
コツコツやれば夢は叶うとストイックに陸上競技にのめり込んでいきました。
試合の為に修学旅行に行かなかったくらい陸上競技に掛けていました。

相変わらず母に褒められる事はありませんでしたが、もうあまり気になりませんでした。

大学も体育大学に進学し、全国大会の出場を目指してとにかく走っていました。
記録も4年間で(110mH:15秒97⇒14秒83)と1秒以上短縮し

ハードラーとしては一つの壁である15秒の壁を突破して短距離ブロックの主将を務めるなど
とても充実した日々を過ごさせてもらい、全国大会にあと一歩という所まで迫っていました。


そして最後となる全国大会出場を掛けた予選会の1ヵ月前
課題を克服しようと新しい練習方法を取り入れた時に転倒。

膝にケガを負ってしまいそのまま引退することになりました。
競技をやってきて一番調子が良いと感じていた時でした。

ケガをするまでは、教員になってスポーツの素晴らしさを伝えたいと思っていました。
夢は諦めなければ必ず叶うんだ!とまだ見ぬ生徒へ伝えたいと思っていました。

しかし、7年間一生懸命やってきたことが一瞬にして崩れ、
全国大会へのチャレンジもできずに終わったことで
「諦めなければ夢は叶う」という信念は崩れてしまいました。

社会人

誰の為の人生か

大学を卒業して教員にならずに一般企業に就職をしました。最後にケガをしたという事も大きかったですが、社会を知らずに教員になるのはおもしろくないと思ったことが主な要因でした。

また、地元にプロスポーツチームがあり、広告・イベント関連の会社に入ってステップアップし、
憧れのチームで働きたいとも思っていました。

新卒で入社したのは交通系の広告代理店でした。主な業務は新規開拓営業で飛び込みとテレアポをひたすら行っていました。当時は全国大会に出れなかった無念を社会人で晴らそうと、

為せば成ると信じて真面目に頑張っていました。

しかし、なかなか結果が出ない。就職当時はリーマンショックの翌年で、景気は最悪。
広告業界も戦後最悪の落ち込みを記録していた時期でした。

加えて、配属された長野県は電車の利用が少ない地域の為
交通系のメディアはなかなか売れない状況でした。

それでも1~2年はなんとか頑張ったのですが、3年目に入っても思うように成績が伸びずとてもツライ時期を過ごしました。こんな時期は色々な事を考え出します。

今までやってきたことはムダだった。
高校・大学であれだけ我慢して陸上競技に打ち込んだけど、
何の役にも立たない。自分ってホントダメだ。

など様々なことを四六時中考え込んでいます。

仕事に家に帰ってもテレビだけつけてボーっと眺めたり
金曜日の仕事が終わった時点で、月曜日の仕事のことを考え始めて気持ちが落ち込んだりと

病院に行けば軽いうつ症状と言われるような状態だったかもしれません。

通勤途中に事故に合えば仕事辞められるかなぁとか
景気悪いし会社が倒産してくれればいいのになぁとか

真剣にとは言いませんが、頭をよぎったことは何度かあります。
そんな時期を過ごしているとついに体がサインを送ってきます。

なんとなくエンジンがかからない。あれだけ生き生きと動けていた体が動かしずらい。
頭で動けと命令してもうまく動かない。幸い私はそれを自覚でき、

このままいくと絶対にヤバイと身体感覚で感じることができました。
これは陸上競技に打ち込んで常に感覚と共にいたからだと思っています。

とにかく、そんな状態になった私は誰の為に人生を生きるのかという事を問い直しました。

陸上競技で一番結果が出て最高に楽しく生き生きしていた時は
自分の為にその時を生きていました。

逆に結果が出ないときやケガをした時は、他人の為にその時を生きていました。

子どもたちの為に教員になりたい。
体育大学を出たのだからプロスポーツチームの運営の仕事をしてキラキラ働きたい。
なんで俺がケガをするんだ?あの時、あの人にこう言われなかったらこんなことになってない。

など、勝手に誰かの為とか誰かのせいにしていることが多かったことに気づきました。

自分の人生の責任を取るのは自分自身しかいない
自分が安心して進める道を進もう

こう決意して、仕事を辞め転職しました。

最大の転機

転職してしばらくして、妻と出会い結婚をすることになりました。
その時の結婚式のプランナーさんにプレマリタルカウンセリング(婚前カウンセリング)

をして頂いたことがきっかけでその後の人生が大きく変容していくことなりました。
このことは私が傾聴や手紙を書くセッションを行う、大きなきっかけとなっているので

個別のブログ記事でご紹介します。ぜひご覧ください。